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「なまけもの」 [散文]

さて、今日はいよいよ明日に控えた
Suzy Cream Cheese@高円寺ショウ・ボートの
最終リハーサルなのだが、
ある曲の歌詞がちゃんとに思い出せない・・・

手前で書いておきながらなんなのだが、
内容が内容だけに思い出せないのか?

「なまけもの」

1.あの雲にぶらさがる
ぼくのメロディー
捕まえたとたんに
すり抜けて

鼻歌まじりに どこかへ飛んでゆく
なにを忘れたのか?さえ
思い出せない

どうだっていい
ぼくのメロディー

2.あの空にまいあがる
きみのエクスタシー
捕まえたとたんに
消えちまう

調子はどうだい?よく眠れるかい?
気分はどうだい?いい感じかい?

あの雲に消えてゆく
きみのファンタジー

3.空から降りてくる
ぼくらのメロディー
捕まえたとたんに
逃げてゆく

鼻歌まじりに どこかへ飛んでゆけ
なにを歌ったのか?さえ
思い出せない

あの雲にぶらさがる
ぼくらのメロディー

PS:今日の澄んだ
雲ひとつない青空からは
何も降りて来ようとはしないけれど


「去年の今日・・・」 [散文]

こんな事を書いたのだが、
http://blog.so-net.ne.jp/bunmei/archive/20070117
Hちゃんは、あれから学校を卒業して
バリバリいろんなところで弾きまくっている。

今日で阪神・淡路大震災から13年―

当時8歳だったHちゃんは、
瓦礫となった家から「威風堂々」の楽譜を
まず見つけたそうだ。

そして、ピアノの先生から
「音楽をやれってことよ」と言われたのだそうだ。

今年の今日、ぼく自身に蘇ってきた感覚は、
13年前の今日、
新大久保のスタジオのロビーで
火の海と化した神戸をTVを観ながら
通じない公衆電話(まだ、携帯持ってる人なんてそんなに居なかった)を
大阪の実家に何度もかけつづけ、
「なんで、おれは今こんなところにいるんだろう?
どうして、両親や兄弟や友達がたくさんいる大阪から
東京に出てきてしまったんだろう?」
http://blog.so-net.ne.jp/bunmei/archive/20060117

そんな、パニックの中のある種
突発的なホーム・シックだった。
東京に出て来てからこれほど故郷を
遠いと感じた事はなかった1日でもあった。
(変な言い方だが、その時関西に居たかった・・・)

だから、Hちゃんが東京でバリバリ音楽しているのは
ぼくにとってそんな自責の念のような
13年前の今日の
その時の感覚を和らげてくれるのだ。

Hちゃん、がんばれ~!!!
おれも、がんばるで~~~!!!

PS:Hちゃんは「はなちゃん」と言う。


「またたびガラス」 [散文]

どこにいてもおなじだよ

遠いか?近いか?

寒いか?暖かいか?

どうせ ここには

君はいないんだから……

ぼくは ここにいる
  
  ぼくは ここにはいない

     ぼくは そこにいた

        ぼくは ここにはいなかった

     さぁ、つぎはどこへゆこう?

     「どこか」が「ここ」になるような「そこ」


「かまいたち」 [散文]

何をかますか?
かまいたち

かまかまかま
かまいたち

かもうもんかと
かまいたち

かまってかまって
かまいたち

かまわんかまわん
かまいたち

お前がだれでも
かまわんさ

かまかまかま
かまいたち

ほんとはおいらが
かまいたち―

たとえ、あんたが
その気でも。


「12年後の今日」 [散文]

Hちゃんという女の子の生徒がいるのだが、
彼女はオルガン、ピアノとめきめき上達し
それだけでなくぼくなんかより全然力持ちで
ボウヤならぬジョウヤを頼んだりする事もある。
その弾きっぷり、
楽器の運びっぷりは
男の生徒たちにも
「Hちゃんをみならえよな~、おまえら!」と
はっぱをかける事になるワケなのだが、
実はHちゃんは12年前に阪神大震災を体験している。
彼女はその時8歳か9歳くらいだろう。
家が崩れ落ちてしまったそうだ。

毎年、この日が来ると
阪神大震災があったあの日に
「自分の大切な人たちを一瞬にして失ってしまったのではないか?」
そう感じた恐怖感や虚無感が蘇ってくる。
ひっくりかえして言えばその感覚は
自分とかかわりのない土地では感じられないものであり、
それがあってからかかわりのないない土地の天災も
とてもリアルに感じるようになった。

Hちゃんは、必ずいいミージシャンになるだろう。
そういえば震災直後、桑名晴子さんが
こんな事を言っていた。

「震災でミュージシャンで死んだ友達とかおらんやろ?
そんな時こそ音楽が必要やから、
わたしらは生かされているのよ」


「11年」 [散文]

今日で阪神大震災から11年が経つ。
ぼくは関西が地元という事も大きいが、
11年前の震災のショックは未だ薄れることはなく、
神戸にゆく度に11年前の今日を思い出す。
火の海になった神戸の街を
東京のTVで観るのはなんともやるせなく、
関西方面すべて連絡不通となっていたその日
両親や友達すべての大切な人を
失ってしまったのではないか?と、
ずうっと考え、一瞬だがたしかに覚悟したのをよく憶えている。
屋根の崩れ落ちた生田神社の映像を観て、
これは本当に現実に起こっている事なのか?
むかいのチキンジョージはどうなっているんだ?
三宮駅近辺は?
淡路島の友達は?
鳴門のおばあちゃんは?
大阪はどうなっている?

たぶん、あの日感じたことは一生忘れることはないだろう。

そう思えばまだ11年しか経っていないのだなぁとも思う。


「あれから10年―」 [散文]

阪神大震災から10年経った。
10年前のあの日―
朝、女房が血相変えてぼくを起こした
「起きて、起きて!梅田が大変な事になってる」
TVの画面には丸ビル近辺のビルのてっぺんのクレーンが
となりのビルに倒れこんでいる映像が映し出されていた。
大阪から東京に出てきて10年ちかく経っていたあの頃・・・
ぼくはその日林田健司のリハーサルだったのだが、
家を出てスタジオに到着すると、
みんながやはりTVに釘付けになっており
今度は神戸の街が火の海になっていた。
これを観た瞬間、
大阪の両親は大丈夫だろうか?とまっさきに思った。
まだ、携帯電話など一般的にはあまりなかった頃である。
リハーサルもそこそこに休憩のたびに
公衆電話で大阪の実家に電話し続けたのだが
なんどかけても回線が込み合っていて繋がらない。
この時の不安な気持ちは今でもよく覚えている。
「もし?」と「でも・・・」が入り乱れて、
つけっぱなしのTVの映像を横目で眺めながら
両親や関西の友達が無事でいてくれるよう
心の中でひたすら祈っていたのだった。
リハーサルのスタッフのひとりが
「コレクト・コールならかかるかもしれません」と言うので
ためしにそれでかけてみたらやっと実家に繋がった。
「お父ちゃん?」
「ああ、ぼくや」
「だいじょうぶなん?」
「家の中はめちゃめちゃやけど、ぼくもお母ちゃんもだいじょうぶや」
「よかったぁ~!」
「しかし、なんで文明のかけてきた電話の金をうちで払わなあかんのや?」
ジョークなのか?マジなのか?よく分からないそんな事を父は言っていた。

ほっとしたと同時に自分の中にある記憶のいろんな景色が
否応なしに消滅してしまった喪失感が今度はぼくを襲ってきた。
その感覚は、あれからずっとぼくの中に居座っている。

数年前まで1月17日には平松愛理ちゃんのチャリティー・ライブで
神戸に行っていたのだが、
今年は愛理ちゃんのそのLiveに
親友のパーカッションの栗ちゃんこと栗山豊二http://home.s05.itscom.net/p-kuri/が参加するそうだ。
栗ちゃ~ん、神戸の人たちを幸せな気分にしてあげてね!


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